Main content

アジアのハブに発展〔歴史に翻弄される香港〕(上)

 あまりに早い中国化

2023年05月22日

中国・アジア

主任研究員
高橋 利明

 英国から中国に返還された後も「一国二制度」に基づいて発展してきた香港は、その姿を大きく変えつつある。変化に対して周辺から懸念の声などがあるが、香港はこれまでもさまざまな国に翻弄されながら、たくましく生き抜いてきてきた。中国に復帰した⾹港は中国の1地域として変わっていくのか、中国における一つの新しい統治モデルとなるのか。歴史を振り返りながら、現在と行く先について、2回に分けて考えてみたい。

漁村から軍事拠点へ

 まずは、先史時代から始めたい。

 香港・西貢の黄地峒で約4万年前の旧石器が1989年に発見された。その後、旧石器時代の遺跡がランタオ島や赤鱲角、南Y島(ラマ島)で相次いでみつかった。香港の歴史はここから始まる。

写真.jpg旧石器発見場所(出所)筆者

 紀元前214年には秦王朝の「南海部」として歴史書に登場。紀元前203年に現在のベトナム・ハノイから中国福建省・広東省あたりにあった「南越国」の領土になるが、紀元736年になって唐に帰属した。当時、新界一帯に海外貿易の拠点「屯門軍鎮」が設置されたが、ここ以外は塩田や真珠採取がさかんな漁村だった。

 約800年の時が流れ、1517年に中国本土と交易を行っていたポルトガル人が屯門島を占拠して支配したが、1521年に北京から派遣された司令官・汪鋐がポルトガルに勝利して明に帰属。ポルトガル人は双嶼島に移り、その後マカオに定着する。1563年になると香港島と九龍半島に水軍がおかれ、漁村から軍事拠点に変貌。香港の重要性が高まった。清の時代の1699年、英国と貿易を開始したが、1840年にアヘン戦争が起こるまでは、大きな混乱もなく、漁村、軍港として発展していく。ちなみに、香港の地名の由来は「香木を集積する港湾」という意味で、軍事とは関係がない。

写真.jpgポルトガルと香港・マカオ(出所)筆者

アヘン戦争で英領に

 しかし、軍港として知られるようになると、地政学的な重要拠点として各国が覇権を争う地域へと変貌していく。

 1839年の第1次アヘン戦争で香港島が英国に占領され、1856年に起きた第2次アヘン戦争後に結んだ1860年の北京条約によって九龍半島も英国の帰属となる。英国はこれでも満足せず1898年に新界も英国管理とした。香港がほぼ現在の形になると、英国人の社交場として跑馬地にロイヤル香港ジョッキー・クラブ(競馬場)が設立され、沙田の競馬場と共に人気を博した。

 1865年に香港上海銀行(HSBC)、1877年には後に香港医科大学を経て香港大学となる港西医書院などを相次いで設立し、植民地化を推進する。

 当時、人々は香港と深センを自由に行き来していたが、話す言葉は異なっていた。この言葉の壁は今も存在し、隣接する大都市を隔てる一つの要因になっている。香港において正式に普通語の教育が始まるのは2015年になってからだ。香港の広東語が廃れていくことの賛否は言い難いが、香港人としての一つのアイデンティが失われていくのは否定できない一面だ。

20230519_03.jpg複数存在する中国語(出所)筆者

日本統治、経済が疲弊

 1941年12月8日の真珠湾攻撃と同じ日、日本軍が深センから香港に侵攻し、25日に英国総督が降伏した。日本軍は皇民化政策をとり、香港人に日本語を強要。中国との貿易が途絶えて大きなインフレーションが起こり、香港経済は疲弊する。この時に日本が発行した軍票により、市民の財産(香港ドルなど)も消失し、約20万人の香港人が香港を去ったといわれている。

 筆者は2017年7月から5年半の間、香港に駐在して山中にある日本軍の塹壕や海を向いている砲台、日本軍の悪癖を紹介した展示室などを見学した。肩身の狭い思いをしたこともあった。香港の人たちが過去を全て水に流したとは言えないものの、寛容に日本人を受け入れてくれていると感じるのは筆者だけではないだろう。

写真.jpg日本軍の侵攻と砲台(出所)筆者


鄧小平の約束

 第二次世界大戦後、英国が香港に復帰し、統治は1997年7月1日まで続いた。この間、中国が深く関与した朝鮮戦争が起き、中国国内では文化大革命の混乱もあったが、香港は軽工業、商業、観光が発展。アジアにおける重要な輸送ハブとしても栄えた。

 そんな香港に予定されていた1997年の中国返還を控え、1984年に「中英共同声明」が出された。この中で鄧小平主席は「一国二制度」を香港に適用し、1997年から50年間は社会主義を香港に強要しないと約束をする。しかし、中国帰属に抵抗感を持つ香港人が相次いで出国。さらに1989年の天安門事件の際にも多数出国している。

図表.jpg一国二制度(出所)筆者

その日にひるがえった五星紅旗

 1990年4月4日に香港特別行政区基本法が制定され、香港行政府は一国二制度に基づいて柔軟に中国を受け入れたかのようにみえた。しかし、中国は元々、"急激"な民主化を危ぶんでいた。1997年7月1日に英国が去り、中国寄りといわれる董建華氏が初代香港特別行政区行政長官に就任すると、英国旗ユニオンジャックとエリザベス女王の肖像は街から消え、中国国旗の五星紅旗がひるがえっていた。

 「私たちは中華系香港人であり、中国に属することを嫌っているわけではない。ただ、(英語による教育、自由な雰囲気など)いままで作ってきた香港文化といった良い点もきちんと中国本土でも理解をしてもらい、一つのビジネスモデルとして見てほしいと思っている」と口にする香港人も多い。あまりにも早い中国化は香港の人々に困惑を与えたのだ。

 次回は、1990年以降に香港が経験したことをもとに、今後の方向性を考えたい。

《関連記事》
◎ 民主派の疑問と懸念〔歴史に翻弄される香港〕(下)
 「一国二制度」と全人代の判断

高橋 利明

TAG:

※本記事・写真の無断複製・転載・引用を禁じます。
※本サイトに掲載された論文・コラムなどの記事の内容や意見は執筆者個人の見解であり、当研究所または(株)リコーの見解を示すものではありません。
※ご意見やご提案は、お問い合わせフォームからお願いいたします。

戻る